武術
武術というカテゴリを作る。
具体的には特定されてしまうので言えないけど、
自分は武術をやっている。
武術の世界は狭いので、あまり踏み込んだ内容を書くと、
誰が書いたか、誰に教えられているかということまで気づかれてしまうので
ちょっとボカしながら。
そもそも武術を始めたきっかけは、強くなりたいからだった。
強くなりたいと一口に言っても、
大凡の入門者は「強くなりたい」と言うために、意味が複雑化されている。
喧嘩に勝ちたいのか。
身体を丈夫にしたいのか。
度胸を付けたいのか。
精神的に打ち克ちたいのか。
過去の自分に勝ちたいのか。
実際はイロイロな動機が絡み合って、
なかなか「これ」と片付けるのは難しいのだけど、
自分の場合は「誰にも怯えない精神力をつけたい」といった動機だ。
では今、それが果たされているかというと、
決して果たされてはいない。
「強くなりたい」という見地で見ても、全く強くなった実感はない。
やっぱり怖い人は怖いし、
「強くなる=ナメられなくなる」は同義ではないから、
自分の性格や雰囲気も手伝ってか、人から下に見られることは多い。
目的を果たすというのはなかなか難しい。
とは言え、肉体的にはやはり強くなっている。
この武術の性質上、なかなかオープンマッスルに表れては見えないから、外面的には分からないけれど、
体幹部分は明らかに大きくなっているし、関節も柔らかくなった。
投げられまくっているから、おそらく打たれ強くもなっているだろう。
しかし、その肉体の強さが精神の強さとイコールするわけではない。
精神の強さというのも、また難しい言葉だけれど、
それが仮に度胸という意味では、度胸がつくわけではない。
それはやっぱりそういう場数を踏むしか無いのだと思う。
しかし、長いこと続けていると、
入門した最初のきっかけと、今の目標的な部分は違ってくるものだ。
「初心忘るべからず」という言葉はあるけれど、
それはあくまで何も知らない白紙の状態の時の、自己のイメージに過ぎないわけで、
明らかに現段階での、武術に対する取組みや技や知識を得ているほうが、正しい認識だと自負している。
今に至っては「強くなりたい」という理想さえ無い。
"強さ"はやってれば勝手についてくる。
むしろなにか、そこに至るまでの過程というものに興味を奪われる。
100~200年前はそうではなかったかもしれないが、
現代は非常に安全な社会だ。
歩いてて突然、命を奪われるような事態には直面しない。
日本は治安もいいし。
だから、こう、
「敵とぶつかりあって命の奪い合いをする」というようなことを考えながら稽古する必要はないのだ。
(技の説明のなかにそれが含まれるものだとしても、それは古を稽えるという意味で取り組めばいい)
稽古している時間は愉しいし、
その愉しさのために稽古すればよい。
スポーツでは結果を求められるために「練習のための練習をするな」という金言があるけど、
武術においては「結果を出す=殺す」ということだから、そんな覇道精神は捨ててしまって、
堂々と練習のための練習をすればよいと思う。
覇道と王道という言葉の違いが好きだ。
覇道というのは制覇、相手を負かし、屈させて、自身が勝者になるということだけど、
王道というのは最初から勝利している。
強い弱いという次元はなく、戦う前から既に勝っているということ。
これを説いた武術家に植芝盛平がいるが、彼は王道精神を貫いていた。
だから、自分も"王道"的な武術が出来れば、それは本懐なのである。
ちなみに少し具体的な稽古内容まで述べると、
甲野善紀氏や黒田鉄山氏の身体論というものに非常に感銘を覚えるので、
その練習を日頃から取り組んでいる。
自分も総合的に、多種多様な武術に取り組んでいる。
おそらく一般的に稽古を見ると合気道や柔術に近い性質のものだろうけど、
突き、蹴り、投げ、武器、オールジャンルを網羅しているから、
やっぱり武術というのがしっくりくる。
たまにはそんな武術のことも、発信してみようかなと思う。